屋台の歴史



参勤交代で武士やその奉公人・出稼ぎ人や単身者の多い江戸では、外食産業が大いに発達した。室町後期から江戸初期の京都を描いた「洛中洛外図」などには、寺社の門前で小屋掛けの茶店や露台で抹茶をたてる風景、人馬の行き交う往還では、立ち食いの雑炊などを掻き込む人の姿も見られる。また、橋の上や路傍には、立ち売りや座売りたちも多く描かれている。人々の集まる場所で簡単な食を提供する商売が成立していたのである。
こうした簡便な食べ物屋がもっとも発達したのが江戸で、その代表が町を売り歩く「振り売り」や「屋台」である。幕末の江戸では町ごとに三、四軒の店が出され、繁華な場所では屋台がずらりと建ち並んでいたそうだ。

参考 ビジュアルワイド 江戸時代館:小学館 江戸学事典:弘文堂
図説 江戸図代 食生活辞典:雄山閣


昭和20年(1945)、第二次世界大戦後の闇市などで、戦争引揚者・戦争未亡人、また戦災で店や家を失った人たちが生活のために屋台を始めた。しかし食品衛生法(昭和23年1月施行)・消防法(昭和23年8月施行)・道路法(昭和27年12月施行)・道路交通法(昭和35年12月施行)などの法律によって次々と規制され、昭和39年(1964)に開催された戦後初の国際行事であるオリンピックを契機に、戦後色を残したものや非衛生的なものを一掃しようとして全国一斉に排除された。



現在、九州の博多(福岡)に健在。組合を組織したりして政治的に粘り強く活動し、既得権益(生活権)として残すことができた。でも現在は高齢化などによって、残念ながら少しずつ減ってきているのが現状だ。一方、平成14年(2001)には青森の八戸に「みろく横丁」がオープン。環境対応型 まちづくり構想プロジェクトとしても注目されている。



1568年に宇都宮城主となった蒲生氏。郷里が江州日野町(現・滋賀県)だったこと、また住居を求めてきたゆかりの商人を、東勝寺跡(下の宮)へ住まわせたこと。それが「日野町」名前の由来で、当時は「日野の人の町」と言われていたそうだ。蒲生氏が郷里を懐かしみ付けた名前でもあったようである。
日野町は、宇都宮大明神の参道近く、また釜川にも臨しているので、昔から神参りの宿場となり道者宿を営む家が数軒在った。(日野町の歴史 篠崎材木店発行より)
第二次世界大戦の戦火は宇都宮をことごとく破壊、日野町も全焼した。けれど、日野町の人々は3人、5人と焼け跡にもどり、バラックを建て始めた。ネオン看板を作り、新たに商売を始め、組合をつくり、宇都宮の発展をリードし続けてきた特別な町なのである。


昭和三十年代、ミヤの中心地、日野町通りと交差するバンバ通りは、近郊の人たちにとってあこがれの場所だった。おしゃれして、気合いを入れていくところ。人がいっぱい集まってわくわくしちゃうところ。二荒山神社の参道には、花やしきがあって、仲見世が並んでいた。「バンバよいとこ 泣く子も笑う 私しゃバンブラ夜が好き」。これはバンバの賑やかな仲見世をぶらぶらとあるく楽しさを唄った歌。立ち並ぶ店は「カラクリ覗きめがねや、吹矢の店、占い師、植木屋、かき氷や、牛肉一膳飯(牛丼屋)、煮込みおでん、カルメ焼き、ポテトやコロッケを目の前の大鍋の油で揚げて、揚げた後ソースをジュウっと浸して食べる串揚げ、文福屋の大福モチ、チンチンヤ屋のクジ付きお菓子、ビスケットなど書ききれないほどで、まさに泣く子も笑う天国」だったのだ。
「うつのみや絵葉書風物詩」 随想舎 石井敏夫様よりお写真のご協力



もちろん、地産地消のもと、地元や生産者の顔が見える心のこもった食べ物を出すことやお酒もここでしか飲めないものを提供している。大谷石をふんだんに利用し、宇都宮ならではの景観が見事。大谷石は、火山灰が堆積し形成された火成岩の一種で、耐震性や耐火性に優れている。旧帝国ホテルがその代表例で、その機能性は充分周知のことだろう。住民が街を愛していけるよう、宇都宮屋台横丁はこれからも街ぐるみでがんばっていくつもりだ。みんなも応援してね!

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